小説「世紀末の苦悩」
1990年から2001年までの日本とアメリカが舞台。一人の人間が苦悩から学び解放されていく様を描く。


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東京在住、30代独身男性。



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第27章 カミング・アウト
まずは第1章から第26章までお読み下さい。

 その日の晩、秀生は、アマンダとバリーがソファにべったりくっついて座りテレビ番組を観ているところ、突然、「大事な話があるんだ」と言いテレビのスイッチを切った。
 二人は、拍子抜けした感じで秀生を見つめる。
「どうしたんだ?」とバリー。
「どうしても、今すぐにでも聞いて貰いたい話しがある。僕についてのことなんだ。もしかしたら、このことを聞いたら一緒にいられなくなるかもしれない」
「へえ、そう、そんなに深刻なことなの? とりあえず話して」とアマンダ、優しそうに言う。
 秀生は勇気を振り絞って言葉を発した。
「僕はゲイなんだ」
 すっと、その言葉を吐き出した後、しばらく、三人の間に沈黙が流れた。
 そして、アマンダが言った。
「それが、あなたの私たちに話したいことなの?」
「ああ」と秀生。
「それだけか?」とバリー。
 秀生は、二人の反応に驚いた。あまりにも、あっさりしている。
「なーんだ、深刻な顔をするから、もっととんでもないことかと思ったわ」
とアマンダが言った。
「驚かないの? 僕がゲイであることを大したことがないと思うの? 嫌いになったりしないのか?」と秀生は、むしろ自分が驚いて言った。
「おい、俺たちはサンフランシスコに住んでいるんだぜ。俺とアマンダの友人や知り合いには、たくさんゲイがいるぞ。お前のようにゲイであることを深刻ぶらずに宣言している奴ばかりだ」
「そうよ。私の大学のクラスメートにもゲイやレズビアンはいるし、今、私が教わっている講師はゲイであることを堂々と言っている人よ。ゲイであることなんて特別なことじゃないわ」
とバリーとアマンダは、普段のお喋りをするように言った。
 秀生は二人の反応に呆気に取られた。こういう反応も、ある程度予想していたが、しかし、予想以上にあっさりとしている。
「もしかして、俺たちがゲイに偏見があるとでも思っていたのか?」
とバリーが訊く。

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テーマ:自作BL小説 - ジャンル:小説・文学

第26章 同性愛ISSUE
まずは第1章から第25章までお読み下さい。

 次の週、スティーブは、同性愛にまつわる様々なissue(社会問題)の数々について語った。まずは、何と言っても差別の撤廃だ。同性愛者であるということが分かれば、否応なく差別を受ける。雇用においての差別が典型だが、その際たるものは軍隊だ。アメリカ合衆国軍では、基本的に同性愛者を入隊させない規則になっている。それは、公言しているかどうかではなく、そうであることが分かった時点で除隊の処分を受ける羽目になるのだ。入隊時に、同性愛者ではないと明言しなければいけないことになっている。
 その他の職業でも、同性愛者であることが発覚して解雇されたりするケースはあり、それが違法でないと認定されることも多い。地方自治体においては、そのような差別を禁ずる法律や条例が施行されているが、1997年時点では、連邦政府やカリフォルニア州にはなく、そのような法案を提出すると、差別撤廃の法律は同性愛者に特権を与えることになるという実に理不尽な反論に出くわす。特権ではなく、差別されることを防ぎたいだけなのだ。サンフランシスコでは、すでに市条例で雇用差別を禁じているが、所詮はサンフランシスコ市内に限られたことだ。
 また、州法で歴然と同性愛行為そのものを禁じている南部の保守的な州もあり、それはソドミー・ローと呼ばれ、同性同士で仮にプライベートでも性行為を行っていたことが発覚すると、自然に反する行為をしたということで罰せられるのだ。自由な国にふさわしくないと思われるが、このような法律は、1997年時点で連邦最高裁でも合憲とされているものだ。
 次に、偏見をなくしていこうという意味で、学校での性教育において、同性愛をきちんと子供たちに教えようという政策の実施だ。多くの同性愛者は、子供の時から、自らの性的志向に気付き、それが世間一般の価値観と合わないことから、恐ろしいまでの苦しみを味わうことになる。それを軽減していこうというものだ。また、それを教えることによって、同性愛者でない子供たちも、社会に同性愛者がいることを認知して、偏見を持たず、対等に接することができるようになるというものだ。
 もちろんのこと、このことには反対論が根強い。何よりも子供たちの親から反発がある。性教育そのものは、異性愛に関しては、性病感染や妊娠防止のため、理解を得られて定着しているが、こと、同性愛に関しては不道徳だとみなす親たちが依然多いので、教育のプログラムに加えることに同意が得られない。また、何とか教えたとしても、異性愛ほど明白に教えることが出来ない面がある。例えば、こんな事件があった。
 ある小学校で、レズビアンのカップルが、自分たちのことを理解して貰おうと授業で話しをしにいった。興味津々な子供が、そのカップルに「あなたは男になりたいの?」ときかれ、カップルの一人は、「男になる必要はない。私はパートナーとする時はディルドーを使っている」と答えた。そのことを知った親御さんたちが仰天して、その授業をした教師の資格停止を教育委員会に申し出たのだ。
 異性間の性行為であれば、かなり際どいことも子供に教えても問題にならなくなったのだが、同性間だと、それは不謹慎と扱われる。際どいこと抜きに性教育など不可能だ。しかし、未成年者が関わることなので非常に難しい問題ともいえる。
 差別の撤廃や、性教育などで、同性愛が認知されるようにのぞむことは、最終的には異性愛者のカップルと同等の権利を保障することにつながる。つまりは、結婚をする権利だ。結婚を定める民法は、各州の所轄になっているが、1997年時点で同性同士の結婚を認めている州はアメリカにはない。そのなかで、稀な例外が、同性愛解放運動の盛んなサンフランシスコで、それは市の条例によって同性同士のドメスティック・パートナーシップという結婚に準ずる身分保障を認めている。だが、これは形式的なものといわざる得ない。保険の加入や、パートナーが入院した場合の見舞いや介護による欠勤など、異性間の結婚で認められている一部の権利保障を認めているが、結婚というには程遠い。
異性同士が結婚をすれば、次に来るのは、子供の養育だ。異性間では、子供は自然に産み出すことが出来る。だが、同性間では生物学的にできない。そうなると養子を迎えるしかない。だが、法的には養子縁組は、異性間の既婚カップルでしか認められない。その他の場合は、シングルの大人が保護者となって迎えるということしかなく、同性カップル両方を子供の両親として認めることにはなっていない。片親だけに血がつながっている場合でも、もう片方は、異性でない場合は、結婚ができないので、親としての養育権を共有できないことになる。
 もっとも、同性カップルの養子縁組は、デリケートな問題だ。乳幼児から預かるという場合であれば、子供の発育にどんな影響があるのか、心配する声が根強い。いずれにせよ、社会の偏見が根強いのだから、いくらカップルに覚悟が出来ても、子供という別人格の問題である。まだまだ、議論を深めなければいけない問題だろう。

 秀生は家に戻った。すると、久しぶりにアマンダに出会った。そして、バリーは、アマンダが、ここにしばらく、場合によっては、より長くここに同居することになると告げた。何でも、アマンダは、バリーとの関係を父親のキャリントン氏に話し、そのことで大げんかになって、家を出ることになったというのだ。親子の関係をほぼ断絶したと語った。
「ダディに言ってやったわ。私は、あなたのようなレイジストを父親とは思わないって。それに、私は、彼が黒人だから好きになったのではない、彼がすばらしい人だからよ、て」
とアマンダは言った。
 二人とも大人だ。もう結婚を考えているらしい。父親に祝福されなくても、愛を貫く覚悟はできている。

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第25章 同性愛とは
まずは第1章から第24章までお読み下さい。

 同性愛、homosexualityという言葉を聞いて皆、どう反応するだろうか。罪深い、病気、異常なことであるというとてもネガティブな響きのある言葉だろう。そんな同性愛的な志向を持つ人々を社会では、ホモセクシャル、ゲイ、女性同士の場合はレズビアンと呼ぶ。そして、そのような人々は蔑まれ、偏見と差別の対象となっている。そもそもホモセクシャルという言葉自体、19世紀にドイツの精神医学者が、病気と決めつけて作り出した言葉なのだ。

 さて、そんな同性愛者に対する偏見の数々を解剖してみよう。

1. 同性同士の性行為では子供が作れない不自然な行為だ。このまま社会に同性愛がはびこると、人類は死滅してしまうのではないか。

 そもそも人間は生殖のためだけに性行為をしているわけではない。たいていは快楽を目的としてしているのが常だ。この社会のすべての人々が同性愛者であるわけではない。また、子供を作り、ただ人口を増やすだけのことが、人類のためになるとは限らない。昨今は地球の人口が増えすぎ、21世紀後半には人口が地球のもつキャパシティを超えてしまう恐れが叫ばれている。そもそも、子供を作れるか作れないかで人間の価値を判断すると、異性愛者でも子供を作らない、または、作れない人々を差別する意味にもなり、ナチスのような優生保護論理を体現する意味で危険な考え方といえる。各個人の選択の自由をないがしろにする考え方でもある。

2. キリスト教の聖書では、罪深い行為として同性愛は禁じられている。

 信教の自由が認められた社会においては、キリスト教は、多数ある宗教の一つに過ぎない。また、キリスト教徒の中には、同性愛者でありながら、信仰を続ける者もいる。確かに聖書には「同性同士で横たわるものは死刑に処されるべし」という文言があるが、同時に「混毛の衣類を着てはならない」とか「同じ畑に異種の作物を植えてはならない」など、現在では、およそ通じない戒律が数多く見受けられる。聖書、そのものは中世になって編纂されたもので、創始者のイエス・キリスト自身が、同性愛に関して述べた記録はないので、キリスト教は同性愛を禁じているとはみなされないとする考え方もある。

3. 同性愛は精神異常ではないのか。

 かつてはそうだった。だが、1975年にアメリカでは精神医学会と心理学会が、同性愛を精神異常ではないという認定をしている。また、1990年にはWHO(世界保険機構)が同性愛を異常性愛ではないという認定を下しており、現在では病気とは扱わないようになっている。
 それではなぜ、人は同性愛者になるのかという問いかけがあるが、それに対しては、人はなぜ異性愛者になるのかという問いかけと同じ答えが用意される。そんなことは、分からないということだ。全人口において同性愛者の占める割合がどのくらいかというと、2%、5%、10%と諸説あるが、実際のところ、そのような調査をしても、正確な回答を得られることは難しい。「あなたは同性愛者か」と問われ、「そうだ」と答える人の割合は、本当に同性愛者である人々の中でも、極少数だ。正直に答えることによる不利益を考え、たとえ匿名でも正直に回答しにくい場合がある。
 これまで人が同性愛者になる原因が議論され、育った環境のため、また、母親の妊娠中のストレスによるものなどという説が流されている。
 有名なのは、19世紀、オーストリアの精神医学者で心理学の祖といわれるジークモント・フロイト博士の男性が同性愛になる原因が、母親が過剰なまでに愛情を注ぎ、女性に対する恐怖症が植え付けられた結果、同性愛者になるという説だ。フロイトと聞くと、そうなのかと思いがちだが、実際のところ、フロイトの理論は現在では数多く否定されている。この男性同性愛者の母親説に限らず、例えば、女性が幼児期に性的な虐待を父親や叔父などの親戚の男性から受けたと主張するのは、女性の、親近者と恋愛感情を持ったことによる妄想から発せられたものであるという説だ。かつては、親近者の間で性的虐待などあり得ないと考えられていたが、現在では大いにあり得ることだと分かっている。
 また、母親の妊娠中のストレス説は、共産勢力下にあった東ドイツで出されたもので、空襲時に妊娠していた女性から産まれた子供が、他の子供より高い確率で同性愛者になるという調査結果であった。だが、この調査自体、信憑性が疑わしい。そもそも、同性愛を異端とする共産主義体制の中で、自らを同性愛者だと名乗る被験者がどれだけいたかという点だ。むしろ、同性愛は異常性愛であるという印象を植え付けるための結論ありきの実験であった可能性が高い。

 どんな名の高い医師や学者であっても、その時代の政治体制や世相に反した論を述べたがらないのが世の常である。研究調査する科学者といえ、人間である。中立的な科学などあり得ないものと心得るべきだ。多くの人々は、それを真に受け、間違った情報により、偏見を抱き、偏見の対象となった人々は、自己否定をして生きていかなければいけない苦しみを味わうことになる。

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